来季、2023年のNHK大河ドラマ、『どうする家康』の特番として、主演の松本潤さんが『どうする松本潤? 徳川家康の大冒険』と称しロケ地巡りをしましたね。
”どうする”のピンチの連続をどう切り抜けたのか、そのルーツを松本潤さんが自転車でたどる番組でした。
この特番でロケ地になるかもしれない場所の紹介や『どうする家康』で放送されると思われる絶体絶命のピンチ脱出を、松本潤さんの家康の思いと共に重ねながら見ていきます。
どうする松本潤の特番ロケ地・見どころシーンは?
『どうする松本潤』でめぐる旅は、徳川家康の人生に訪れた幾度ものピンチをどのように決断していったのかの秘密に迫る現地体験したレポですね。
家康と言えば、世間では天下人にのぼりつめとされる武将ですが、なかなか一筋縄ではいかなかったようです。
その聖地ともいえる場所を松本潤さんが巡ったというのですから、是非とも『どうする家康』が始まる前に覗いてみたい場所でもありますね。
特番ロケ地で絶体絶命は桶狭間の戦い
『どうする松本潤ロケ』で決断を迫られる1つ目のポイント
名将の運命を変えた一戦
【 桶狭間の戦い 】
1.古戦場伝説地(国指定史跡):豊明市
今川義元の墓や松井宗信の墓を見ることができます。
2.桶狭間古戦場公園:名古屋市
今川義元の墓や義元・信長の像があり、公園全体が桶狭間合戦の様子を模したジオラマになっています。
桶狭間古戦場観光案内所も楽しめます!
では、これらの戦いの名場面で登場する危機と秘策など紹介していきます。
絶体絶命ロケ地シーンは桶狭間の戦い
今川義元・今川の有力武将の一人松平元康(徳川家康)
VS
当時27歳の織田信長 勝利
身分・戦いの経験値・軍事力どれにつけても、今川軍が有利とされていた戦いも、桶狭間の山、大雨(躊躇する今川軍を奇襲)など味方に織田軍が勝利し、織田信長の名が天下に示した戦いになります。
★敗戦した家康が危機を逃れることができたターニングポイント
◆今川軍の敗退で岡崎城に戻る途中、落ち武者狩りに合うが、先導していた浅井道忠の機転で難を逃れる。
◆敗れた逃げ帰った家康は自害を試みるが、その際、愛知県にある大樹寺(菩提寺)住職から「太平の世を目指す」教えを受けたとされ、自害を思いとどまったとされる。
その当時、松平元康(徳川家康)は今川の有力武将の一人で、今川が討ち取られ敗北したのちは念を入れる慎重さで岡崎城へ逃げ帰ることになる間、幾度にもわたるピンチ①つ目の”どうする松本潤”
松本潤さんも実際目にする重要な史跡、家康が判断しながらも周囲に助けられながら生き延びる姿をこのロケを通して目の当たりにし、きっと実際の『どうする家康』では素晴らしい作品にしてくれるでしょう。
①伯父の助言と内通・浅井道忠の機転で大高城から撤退
松平元康(後の徳川家康)は桶狭間合戦時、今川の先兵として大高城での休息を命じられていましたが、今川義元は信長によって討ち取られてしまいます。
伯父で織田方である水野信元が使者・浅井道忠を通し撤退を勧めます。
「義元が討ち取られ、明日には織田勢が攻め入る。
今すぐ大高城から撤退せよ。」
義元戦死の噂を信じず、「退却して、誤報であれば笑われる」と撤退しない中、岡崎城から文が届き、浅井を先頭に岡崎城へ向かいます。
織田軍の落ち武者狩りにに遭いますが、浅井道忠の機転で難を逃れたと言われています。
「我は水野信元が家臣・浅井道忠である。殿の命令で今川軍を追っている。道を開けられよ。」
さらには、矢作川を渡るにも当時は橋もなく、増水した川を渡るのは困難だったところに、
●長瀬八幡宮の森から3匹の白鹿が現れ、矢作川の浅瀬を渡る鹿に続いた。
●白鹿ではなく、配津村の半三郎という船人だった。
諸説あるようですが、道中の災難を逃れたと言われています。
②敗戦で自害の思いをとどめた大樹寺住職・登誉上人との出会い
今川義元が討ち取られ身の危険を感じた松平元康(徳川家康)は大樹寺に逃げ込みます。
もはやここまでと先祖の墓前で切腹しようとしたところ、当時の第13代住職・登誉上人の言葉で思いとどまり再起を誓ったとされたのが大樹寺です。
「厭離穢土・欣求浄土」
”おんりえど・ごんぐじょうど
何のために戦い、人を殺すのか?
この汚れた戦国乱世を住みよい浄土にするのがお前の役目!
ここで、決意を新たにした家康公は敵の包囲を破ることになります。
そんな素晴らしいエピソードの舞台となった大樹寺の全貌がスリル満とても斬新で本当に素敵です。
その場にいるかのようなシチュエーションが広がりますので覗いてみてください!!
大樹寺は家康の今後の人生が決まったとされる大事な場所です。
松本潤さんが絶体絶命の危機として巡る旅となれば、『どうする家康』の名シーンとして流れるのではないでしょうか。
大樹寺では!
家康公が魂に刻んだとされる大切な言葉「厭離穢土欣求浄土」の8文字が書かれたありがたい御朱印を頂くことができます。
御朱印はありがたく、今とても可愛い絵付きの御朱印もあるようですね。
御朱印長は神仏とのご縁を記録するもので参拝した証でもあるので、メモ帳やノートではなく御朱印専用が手元にあると心が豊かになりそうな気がしませんか。
特番ロケ地で絶体絶命は長篠・設楽原の戦い
『どうする松本潤ロケ』で決断を迫られる2つ目のポイント:現在の愛知県新城市
騎馬軍団を焚きつけた戦略と最新兵器
【長篠・設楽原の戦い】
絶体絶命ロケ地シーンは設楽原決戦場
迫力あるシーンですね。
『どうする松本潤』でも、このシーンが流れます。
火縄銃の試し打ちをし、武田軍を迎え撃つ家康の気持ちに近づくことは出来たのでしょうか 🙄
ピンチをどのようにチャンスに変えたのか、見どころ漫才のシーンですのでドラマでは間違いなく使われる設楽原決戦場と思われます。
織田・徳川連合軍 勝利
VS
武田軍
長篠・設楽原の戦い以前、織田と武田は同盟を組んでいます。
織田と足利将軍の関係が悪化したことで「反信長包囲網」が起こり、将軍側についた武田に攻撃された徳川家康は大ピンチとなります。
ところが、甲斐のカリスマ武将の武田信玄は急死。
継承した側室の子・勝頼との合戦となり代わりますが、武田を迎え討つべく徳川と織田は手を組み、織田・家康連合軍が勝利したのが長篠・設楽原の戦いになります。
★織田・家康を勝利に導くターニングポイント
- 武田信玄の急死により継承の側室の子・勝頼には奇襲の際まで家臣が一丸となるまでの信頼がなかった。
- 武田軍に長篠城を囲まれ、織田へ援軍求め命を落とした功労者、鳥居強右衛門の存在。武田軍の包囲をくぐり抜けるため川底を泳ぎ、37㎞先の岡崎城へ向かい援軍要請。
見事な尽力をし、武田軍にとらえられながらも最後まで武田軍に屈せず処刑。 - 家康の兵力8000と30000の織田の援軍が集まり、武田を上回る連合軍となる。
- 家康の家来の提案による、武田軍の退路を断ち正面突破せざるおえない決戦へと導く砦攻撃。
- 武田軍の騎馬隊を迎え撃つは信長の最新兵器(鉄砲)と2㎞にわたる馬防柵。
- 火縄銃と天候が味方するの強運。
これら以外にもピンチ脱出し強運を味方につけた家康秘話など、現地の取材で家康像を膨らましてほしいですね。
無敵と言われた武田の騎馬軍団を陥れる策に持ち上がったピンチ②つ目の”どうする松本潤”
ここからは、こんな戦場の様子が予想されます!!
火縄銃と馬防柵を間近にして、撮影前の思い入れと下準備ですね。
①武田軍の騎馬隊を迎え撃つは最新兵器(鉄砲)と柵
織田信長は火縄銃を1000丁~3000丁準備できるほどの経済力であったとされています。
武田軍の優秀な騎馬隊に攻め込まれないため、設楽原を流れる連吾川沿いに2㎞にわたり馬防柵を築き待ち構えたという有名な戦略が織田・徳川連合軍を勝利に導いた要因の1つとなっています。
『どうする家康』、『どうする松本潤』で訪れ関わる歴史ある新庄市の設楽原決戦場まつり見てみたいですね。
②騎馬軍団を正面突破へと焚きつけた戦略
この柵内で待ち構える戦略を成功させるためには、武田軍の退路を断ち前進あるのみの正面突破せざるおえない決戦へと導く砦攻撃が必要だったわけです。
そこで出た、絶体絶命のピンチをチャンスに変える作戦を思いついたのが、徳川家康の家来だったと言われています。
そして、その策を武田軍に漏れることをおそれ、家来の名案を却下しつつ実行させたのが織田信長でした。
その提案とは、
武田軍本隊の後方にあった砦を奇襲攻撃すること。
「先ほどは武田方に漏れる恐れがあったので、わざと却下した。
おぬしの案は、的を射た最善の作戦だ」
武田軍本隊は後退できず正面突破のみとなり、馬防柵を築き待ち構える織田・徳川連合軍信長の思惑通り決戦に持ち込めたというわけです。これにより、後退ずることは不可能なり、武田の騎馬軍は前進するのみとなります。
このような柵の間から火縄銃の攻撃では八方塞がりと言えそうです。
敵をあざむくには、まず、”味方から”なのですね。
◆この時期は梅雨で火縄銃を使うには天候が左右されたのですが、まさに天候が味方する明暗の別れどころがあったとされています。
しかし当日は信長陣営は晴れ、武田陣営は霧が立ち込め視界が悪かったといいます。
桶狭間の戦いでは雨が味方し、天候が左右した戦いだったようです。
このような天候が味方したとも言われる桶狭間の戦いは、織田信長扮する岡田准一さんと、家康の松本潤さんが2人並び戦場で戦うシーンも見どころです。
⇑⇑⇑こんなお話もしています。
この戦場を再現している設楽原決戦場まつり、2021年はコロナの関係で恒例の火縄銃演武等の催しは中止されたようです。
今後どうなっていくのでしょうか。催しの内容はこちら≫≫≫
特番ロケ地の本能寺の変・「神君伊賀越え」のルート巡り
1582年6月2日に勃発した本能寺の変は、徳川家康に絶体絶命の危機をもたらします。
織田信長が明智光秀に暗殺されたのが本能寺の変ですが、この裏には黒幕がいたとも言われ、朝廷・足利義昭・豊臣秀吉ほか、名だたる武将たちの共謀説がも上がっています。
歴史には、諸説あり真相がわからない部分がありますが、そこがまた脚本家によってとらえ方が違うというのも面白いところです。
このような動画も分かりやすいですね。
また、豊臣秀吉役でムロツヨシさんがのキャスト発表されています。
どのような場面で出演されるのかも楽しみです。
★織田・家康を勝利に導くターニングポイント
- 織田方の武将の首を狙う一揆民や明智勢から狙われることは必至。
- その頃は織田信長の接待後で堺市で見物から京都へ向かう最中でお供は総勢34名と少なく兵をあげることはなかったが家康は強運の持ち主だった。
- 山中を通り三河まで帰る間、一揆勢との遭遇や落ち武者狩りなどの危険を考え、襲撃されるくらいなら皆で切腹することを促すが...。
- 織田方の武将の首を狙う一揆民や明智勢から狙われることは必至。
- その頃は織田信長の接待後で堺市で見物から京都へ向かう最中でお供は総勢34名と少なく兵をあげることなかったが家康は強運の持ち主だった。
- 山中を通り三河まで帰る間、一揆勢との遭遇や落ち武者狩りなどの危険を考え、襲撃されるくらいなら皆で切腹することを促すが...。
織田陣営での出来事が一気に敵対する場にピンチ③つ目の”どうする松本潤”
①”神君伊賀越え”に関わる功労者は服部半蔵?
ここまで見てくると、家康は何度危機にさらされ、その度にピンチを脱出することができています。
この時にお供していた中には、徳川四天王の酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政などがいたとはいえ、わずか34名に過ぎず...。
しかしながら、危険だらけの伊賀国脱出を果たします。
実際、こんな感じかと思いますよ!!
お供の中に伊賀出身で伊賀に詳しい服部半蔵こそ、”神君伊賀越え”の功労者の1人!
服部半蔵
非常に困難な三河へ帰還の中、伊賀の土豪と交渉し、伊賀者の護衛を引き連れ無事に家康を三河へと導くことに成功させた。
これにより、家康は窮地を脱することに成功しているのです。
『どうする家康』のタイトルからして、もしかして頼りなさげな家康?ですが、家臣たちに恵まれた家康のイメージが強くなりそうかも。
とはいえ、それだけ松本潤さん演じる家康は、人徳があったのでしょう。
家康は苦労人ですから、慢心せず人望も厚かったとされるところ、松本潤さんにピッタリのような気がします。
②絶対絶命の危機を幾度も食い止めた功労者は本多忠勝?
家康:「土民に殺され無様な最期を迎えるくらいなら自害した方が良い。」
本多忠勝:「生き延びること,
光秀を討つことこそ最大の供養。」
逃避行中、土民からの襲撃を制したのが本多忠勝で、名槍の「蜻蛉切」で追い払ったと言われています。
伊賀の山中などで本多忠勝もこんな風に戦ったのでしょうか。
蜻蛉切(とんぼぎり)
三河まで帰る中、危険回避のため京都の知恩院へ駈け込み難を逃れています。
知恩院は春・秋など素敵にライトアップをしているので、観光にも最適ですね。
詳しくはこちら≫≫≫
岡崎城まで伊賀の山中を無事に逃避行できるなど考えられなかったことを成し遂げたという所
様々な助けがあった危機脱出であり、
チーム家康の絶大なる幸運ともいえますね。
本能寺の変のピンチ!『どうする家康』では伊賀越えだけでなく知恩院ロケもあるのでしょうか。
幾度なく自害を考える家康の人生、松本潤さんはロケ内で慎重に受け止めるのでしょうね
どうする松本潤特番ロケ地は?ピンチ乗り切ったチームまとめ
『どうする家康』の特番、主演の松本潤さんが『どうする松本潤? 徳川家康の大冒険』でロケ地巡りした先の逸話をシーンを想像しながら、実際どのような物語があったのか見てきました。
歴史には沢山の説がありますが、今回の”どうする”のワードのように、たくさんの危機を迎えた家康の人生を松本潤さんがロケ地巡りしながらどのような紹介をしてくれるのか、楽しみながら比較していただけたら嬉しいです。
是非、特番を見逃さず、松本潤さん主演の来季NHKドラマを楽しみましょう。
ここまでご覧いただきありがとうございました。
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